2022/03/10
スローライフⅣ
小倉常盤橋~唐津城 120km、6日間を費やす
長崎街道も終点に近づくなか、次はどの街道を歩こうかとなり、間髪入れずに唐津街道に決定する。
調べてみると起点は小倉常盤橋から唐津城までとなっているのもあれば、門司大里から唐津名護屋城もある。
また江戸末期からは長崎街道の木屋瀬から分岐して赤間に抜けるルートが主になっていたようだ。
歩いたのは古いルートで若松経由を選んだ。しかし江戸時代の街道は長崎街道、唐津街道、中津街道、秋月街道、門司往還等々、この常盤橋が起点となっている。
何回も来る事になった早朝の常盤橋。左手が小倉城。
今ではリバーウオークの新しい街並みに変革しています。このちょっと先から左に進めば長崎街道。右に行けば唐津街道となる。
右の戸畑方面に進む。ほとんど街道の面影は無し。
常盤橋から一里(4km)戸畑の一里塚。
その昔はこの辺りも海岸線だったのでしょう。
現在の九工大前をかすめて戸畑の渡船場から若松に向かう。
上には真っ赤な若戸大橋があり、当然渡船で渡る。若松は明治から活躍した街で極力スルーする。
明治から昭和の大動脈、遠賀川を下り芦屋へ
その中の一つ。石炭の積み荷を運んでいた人が居た“ごんぞう小屋”。
明治から昭和の大動脈。遠賀川。
筑豊の産炭地から遠賀川を下ってこの若松で大型船に積み替えてたんでしょう。
洞海湾沿いを歩いて遠賀川を下流に向かう。そして芦屋へ。
やや面影が残っている街並み。芦屋宿。
花柳界も華やかだったのでしょう。
芦屋でのルートは現在の航空自衛隊基地になっている。迂回路を通り、一路海老津へ向かう。
町おこしとして整備されている赤間宿~原町宿~畔町宿
海老津から宗像の城山を観ながら赤間宿へと入る。宿の名残は残っており現在でも唐津街道赤間宿として商店街を維持しているのは素晴らしい。
勝屋酒造さんの蔵開きの日にぶつかりザックの中に一本入れる。
赤間宿→原町宿→畔町宿は唐津街道の宿場町としての町おこしの一環で綺麗に整備されています。
原町宿の土蔵を有効活用した人気の蕎麦屋さん。
畔町宿を過ぎると間もなく古賀の青柳宿。立花山がチラホラ見え隠れし始める。
我が家のある香椎も間もなくです。
立花連峰(左の高いのが立花山、松尾山、白岳)
立花山の下にある夜泣き観音。悲しい逸話があります。
この道中で名護屋城を築城させ征韓の為、数度通過した太閤(秀吉)水がところどころに残っている。
香椎、名島を通過して、多々良川を渡り箱崎に入る。
当時でも大都会だったのでしょう。
この箱嶋家住宅は維持されています。
九大医学部の敷地内にある、利休に秀吉が茶を沸かさせた”利休釜掛けの松”、黒田家の菩提寺である崇福寺、御笠川べりの濡れ衣塚をみながら福岡へと進む。
佐野近世が下向し、筑紫に赴く。妻を病死で亡くし後妻を貰う。
この後妻のたくらみで娘は近世に疑いをかけられ殺害される。ヌレギヌを掛けられ、ヌレギヌの語源になる。
曹洞宗・金龍寺にある貝原益軒の銅像。黒田藩に仕えていた。
ひたすら歩いた虹ノ松原、唐津へ
福岡市内はところどころに街道の面影があるが、ほとんどが大都会に埋没されてしまっている。その中でかすかに残っている姪浜の唐津街道。
生の松原の元寇防塁の後をみながら一路糸島方面へ
途中に奇岩(包石、帯石)見る。
玄界灘は波静か。
虹ノ松原に入ると唐津城はすぐ目の前になる。しかしこの虹ノ松原は長い。
ただひたすら歩いた感じです。
ホットドッグ屋さんもカフェも無視(^^♪
中津街道を終え日田街道完歩へ 薩摩街道にチャレンジも!
唐津の城下町に入る。
唐津藩は名護屋城を普請した寺沢家が初代城主であるがその後、大久保→松平→水野→小笠原と入れ替わり譜代大名が継いでいる。
別名舞鶴城ともいわれ、歩いた虹ノ松原が翼を広げた鶴に見えるところから呼ばれたようだ。唐津城到着時点では名物の藤が満開でお城を引き立てていました。
無事に120kmを完歩。
この唐津街道は海岸線が多いせいか高低差がさほどなく、歩きやすい道でした。
JR鹿児島本線、JR筑肥線が側を通っておりホテルでの宿泊は無しで完歩出来ました。
その後、小倉から中津までの中津街道を終え、今は日田往還(日田街道)を歩いています。
その時代の高速道路だったのでしょう。大イベントの参勤交代もこの道を通ったことでしょう。
この日田街道の次は町内会のボランティアも終えているころですので、薩摩街道にチャレンジしてみる予定です。
完璧に街道歩きに嵌っていますが、やはりこれも山登りに似通ったところがあります。ひたすら歩いていると”無”になれます。いいですね。
その昔、天台宗の修験者が山岳宗教に頑張っていたのに通じる部分があるのかもしれません。
小倉常盤橋~唐津城 120km、6日間を費やす
長崎街道も終点に近づくなか、次はどの街道を歩こうかとなり、間髪入れずに唐津街道に決定する。
調べてみると起点は小倉常盤橋から唐津城までとなっているのもあれば、門司大里から唐津名護屋城もある。
また江戸末期からは長崎街道の木屋瀬から分岐して赤間に抜けるルートが主になっていたようだ。
歩いたのは古いルートで若松経由を選んだ。しかし江戸時代の街道は長崎街道、唐津街道、中津街道、秋月街道、門司往還等々、この常盤橋が起点となっている。
何回も来る事になった早朝の常盤橋。左手が小倉城。
今ではリバーウオークの新しい街並みに変革しています。このちょっと先から左に進めば長崎街道。右に行けば唐津街道となる。
右の戸畑方面に進む。ほとんど街道の面影は無し。
常盤橋から一里(4km)戸畑の一里塚。
その昔はこの辺りも海岸線だったのでしょう。
現在の九工大前をかすめて戸畑の渡船場から若松に向かう。
上には真っ赤な若戸大橋があり、当然渡船で渡る。若松は明治から活躍した街で極力スルーする。
明治から昭和の大動脈、遠賀川を下り芦屋へ
その中の一つ。石炭の積み荷を運んでいた人が居た“ごんぞう小屋”。
明治から昭和の大動脈。遠賀川。
筑豊の産炭地から遠賀川を下ってこの若松で大型船に積み替えてたんでしょう。
洞海湾沿いを歩いて遠賀川を下流に向かう。そして芦屋へ。
やや面影が残っている街並み。芦屋宿。
花柳界も華やかだったのでしょう。
芦屋でのルートは現在の航空自衛隊基地になっている。迂回路を通り、一路海老津へ向かう。
町おこしとして整備されている赤間宿~原町宿~畔町宿
海老津から宗像の城山を観ながら赤間宿へと入る。宿の名残は残っており現在でも唐津街道赤間宿として商店街を維持しているのは素晴らしい。
勝屋酒造さんの蔵開きの日にぶつかりザックの中に一本入れる。
赤間宿→原町宿→畔町宿は唐津街道の宿場町としての町おこしの一環で綺麗に整備されています。
原町宿の土蔵を有効活用した人気の蕎麦屋さん。
畔町宿を過ぎると間もなく古賀の青柳宿。立花山がチラホラ見え隠れし始める。
我が家のある香椎も間もなくです。
立花連峰(左の高いのが立花山、松尾山、白岳)
立花山の下にある夜泣き観音。悲しい逸話があります。
この道中で名護屋城を築城させ征韓の為、数度通過した太閤(秀吉)水がところどころに残っている。
香椎、名島を通過して、多々良川を渡り箱崎に入る。
当時でも大都会だったのでしょう。
この箱嶋家住宅は維持されています。
九大医学部の敷地内にある、利休に秀吉が茶を沸かさせた”利休釜掛けの松”、黒田家の菩提寺である崇福寺、御笠川べりの濡れ衣塚をみながら福岡へと進む。
佐野近世が下向し、筑紫に赴く。妻を病死で亡くし後妻を貰う。
この後妻のたくらみで娘は近世に疑いをかけられ殺害される。ヌレギヌを掛けられ、ヌレギヌの語源になる。
曹洞宗・金龍寺にある貝原益軒の銅像。黒田藩に仕えていた。
ひたすら歩いた虹ノ松原、唐津へ
福岡市内はところどころに街道の面影があるが、ほとんどが大都会に埋没されてしまっている。その中でかすかに残っている姪浜の唐津街道。
生の松原の元寇防塁の後をみながら一路糸島方面へ
途中に奇岩(包石、帯石)見る。
玄界灘は波静か。
虹ノ松原に入ると唐津城はすぐ目の前になる。しかしこの虹ノ松原は長い。
ただひたすら歩いた感じです。
ホットドッグ屋さんもカフェも無視(^^♪
中津街道を終え日田街道完歩へ 薩摩街道にチャレンジも!
唐津の城下町に入る。
唐津藩は名護屋城を普請した寺沢家が初代城主であるがその後、大久保→松平→水野→小笠原と入れ替わり譜代大名が継いでいる。
別名舞鶴城ともいわれ、歩いた虹ノ松原が翼を広げた鶴に見えるところから呼ばれたようだ。唐津城到着時点では名物の藤が満開でお城を引き立てていました。
無事に120kmを完歩。
この唐津街道は海岸線が多いせいか高低差がさほどなく、歩きやすい道でした。
JR鹿児島本線、JR筑肥線が側を通っておりホテルでの宿泊は無しで完歩出来ました。
その後、小倉から中津までの中津街道を終え、今は日田往還(日田街道)を歩いています。
その時代の高速道路だったのでしょう。大イベントの参勤交代もこの道を通ったことでしょう。
この日田街道の次は町内会のボランティアも終えているころですので、薩摩街道にチャレンジしてみる予定です。
完璧に街道歩きに嵌っていますが、やはりこれも山登りに似通ったところがあります。ひたすら歩いていると”無”になれます。いいですね。
その昔、天台宗の修験者が山岳宗教に頑張っていたのに通じる部分があるのかもしれません。
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