弁護士

江口 正夫

1952 年生まれ、広島県出身。東京大学法学部卒業。弁護士(東京弁護士会所属)。最高裁判所司法研修所弁護教官室所付、日本弁護士連合会代議員、東京弁護士会常議員、民事訴訟法改正問題特別委員会副委員長、NHK文化センター専任講師、不動産流通促進協議会講師、東京商工会議所講師等を歴任。公益財団法人日本賃貸住宅管理協会理事。

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2025/07/10

ハンコ代での遺産分割協議の留意点

Q 私Aは、父と母と弟のBの4人暮らしですが、今年、父が亡くなりました。
父の遺産は自宅の土地建物と若干の預貯金です。
自宅は住宅ローンの借り入れが未だ4,000万円残っており、土地建物には銀行の抵当権が設定されています。
母と弟のBと父の遺産分けについて話し合ったのですが、自宅の土地建物に4,000万円の借金の抵当権が設定されていますので、長男の私Aが自宅の土地建物を相続して母は終生私Aが世話をする、自宅を私Aが相続する以上、自宅の土地建物に設定された抵当権のもととなった借金は私Aが全額を承継する、弟Bは、自宅の土地建物の借金を負わない代わりに、若干の預貯金とハンコ代100万円を受け取ることで遺産分割協議をまとめることになりました。

このように、相続人の一人(長男A)が遺産を全て相続する代わりに借金も全額引き継ぎ、母は長男Aが終生面倒を見る、弟のBは、僅かな預貯金のほかは何も財産を受けない代わりに、遺産分割協議書にハンコを付く際のハンコ代として100万円を受け取るという遺産分割協議書を作成することは何も問題は無いと思うのですが、このような処理でよいでしょうか?


1 遺産分割協議の内容

今回の相続は、被相続人が御父様、相続人が、御母様と長男A・次男Bの3人で、相続人が引き継ぐ財産は、自宅の土地・建物と預貯金と自宅の住宅ローン4,000万円の借金です。

自宅の土地建物を二人の子のうちの一人が相続して、自宅に住んでいる御母様の世話を終生行う、ということは合理的な分割内容だと思います。
また、自宅を二人の子のうちの一人が相続する以上、自宅の住宅ローンも自宅を引き継ぐ相続人が引き継ぐということも合理的な考えだと思います。
もう一人の相続人は、自宅の土地建物は相続しませんが、借金4,000万円も引き継がないのであれば、預貯金とハンコ代で分割を完了するということは至極合理的な案のように見えます。

2 今回の遺産分割協議の問題点

ただし、今回の遺産分割協議書の内容は、一見、問題がないかのように見えますが、法的にはただ1点、気になるところがあるのです。
それは、「被相続人の遺産」というと、土地建物や預貯金のようなプラスの財産(これを法律では「積極財産」といいます。)と借金のようなマイナスの財産(これを法律では「消極財産」といいます。)とがありますが、法律で定める「遺産分割協議」とは、被相続人の遺産のうち、プラスの財産(積極財産)を分割することをいい、借金等のマイナスの財産(消極財産)は遺産分割の対象とはされていないことです。
何故なら、借金は、その相手方である貸主がいますから、貸主の同意を得ることなく、相続人が借金の承継者を勝手に決めることはできないからです。
例えば、遺産の土地建物を裕福な長男が承継し、借金を生活に困窮している次男が全部承継することが認められるのであれば、借金の事実上の踏み倒しが可能になってしまいます。

このため、法律では、借金等の消極財産は遺産分割協議の対象ではないとしています。
では、借金はどうやって承継するかというと、「当然分割」とされ、遺産分割協議などするまでもなく、被相続人の死亡と同時に各相続人の法定相続分の割合による分割が完了する、という意味です。

もちろん、長男Aが他の相続人との間で、父親の借金を全て引き継ぐと約束したこと自体は相続人間では効力が認められますが、借金の相手方である銀行に対しては、そのような法律とは異なる分割協議をしたことは対抗(主張)できないということになります。
従って、債権者である銀行は、長男が住宅ローンを返済している間はとやかくいうことはありませんが、万一、長男が経済的に破綻したりしてローンの支払いが滞ると、銀行から、御母様と次男の方にそれぞれ相続分として承継した借金(御母様が2分の1の2,000万円、弟Bが4分の1の1,000万円)を支払うよう請求してくることもあり得るということになります。

3 どうすればよいのか?

この遺産分割協議がいけないというわけではありません。その後の手続きをしないとそうなるということなのです。
その後の手続きとは、銀行との間でも遺産分割協議書で約束したとおり、長男が御母様の2,000万円の借金と弟Bの借金1,000万円を引受けて、御母様と弟Bの債務をゼロにするという契約を、銀行と相続人全員の間で契約すれば、その契約の効力により、御母様は借金はゼロに、次男Bも借金はゼロになり、長男Aが単独で4,000万円の借金を引受けることになります。
この契約を、他の相続人の借金をゼロに(つまり御母様と弟Bを免責)して、長男Aのみが債務を引き受けますので「免責的債務引受契約」といいます。

銀行は、この契約書のひな形を持っていますから、このようなハンコ代を支払うことで遺産分割協議をしたときは、銀行との間で免責的債務引受契約までしておけば、他の相続人が借金の督促を受けることがなくなることが確定しますので安心です。

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